国立研究開発法人 産業技術総合研究所 物質計測標準研究部門 主任研究員 稲垣真輔 氏 博士 (薬学)

任期付きポジションを3回経験して専門分野を深める

Q:ご専門は薬学ということですが、大学ではどのような研究をされたのでしょうか。

A:化学が好きだったので、将来医療分野で化学の知識を活かして仕事がしたいと思い、薬学部に入りました。学部で分析化学の研究室に配属されて、研究することの面白さに気が付きました。しかし、薬剤師国家試験の準備のために、好きだった実験や知識を深めるための勉強に十分時間が取れませんでした。そこで、大学院に進み、修士・博士課程を引き続き同じ研究室で過ごしました。

修士・博士課程ではキャピラリー電気泳動法の感度を向上させて、アセトアルデヒドなどの化学物質で損傷を受けたDNA中の、核酸塩基の分析法開発に取り組みました。電気泳動は、荷電粒子や分子が電界中を移動する現象を利用して物質の分離をする手法です。中でもキャピラリー電気泳動法は優れた分離能を持っています。しかし、装置の構成上、濃度の低い物質の検出が難しいという特徴がありました。損傷を受けたDNAは正常なものの100万分の1以下と微量なため、キャピラリー電気泳動法で分析するには、感度を改善する必要がありました。そこで、新しい検出法に取り組んだり、キャピラリー内で試料を濃縮するオンライン濃縮法を色々と試したり、ときには液体クロマトグラフ質量分析計を使ったりしました。その結果、博士課程のときにはDNA損傷割合を測定することが出来るようになりました。


Q:博士号取得後、大学でのポジションが目標だったのでしょうか。

A:製薬会社の研究職に就くという進路もあったと思うのですが、博士号を取るのに苦労したため、就職活動をする時間が取れませんでした。今振り返れば、自分の母校は厳しかったのか、学位審査の前提として5-6報の主論文が必要でした。そのため、実験に追われ、博士号を取得できたのが半年遅れでした。就職をどうしようかと悩んでいたとき、たまたま産総研に勤めている研究室の先輩に、産総研の特別研究員というポスドクのポジションを紹介されました。そして、環境管理研究部門の計測技術研究グループに入り、分析化学の研究に取り組みました。当時ポスドクは1年毎の更新が必要で、仲間内ではプロ野球選手のように契約更改と呼んでいました。

産総研では使い慣れたキャピラリー電気泳動分析法により、食品に含まれる乳酸菌や病原菌をターゲットとした微生物の分離・検出にチャレンジしました。これは従来の培養法と比べて迅速な微生物検査法の確立を目指した研究で、当時は誰も研究したことがなかったテーマでした。ポスドクでは次のポジションを得るために研究成果が出やすいテーマを選ぶことが多いのですが、私の場合は自分の興味を優先して難しいテーマに挑戦しました。目標とする成果を得られなかったことは今でも心残りですが、幸い学会で若手のポスター賞をいただくことが出来ました。

国立研究開発法人 産業技術総合研究所 物質計測標準研究部門 主任研究員 稲垣真輔 氏 博士 (薬学)

Q:その後はどうされたのでしょうか。

A:ポスドクを1年半やった頃に、薬学部の分析化学講座の助教の募集に応募しました。今なら採用面接でプレゼンテーションなどが必要かと思いますが、その頃は履歴書や論文などの業績リストによる書類審査だけでした。研究領域が非常に近かったため、幸運にも採用していただけました。この研究室では、液体クロマトグラフィーを使った化学分析方法の研究に取り組み、麻薬や危険ドラッグの分析法や、液体クロマトグラフィー質量分析計の高感度化を目指した誘導体化試薬の開発をしました。このとき開発した試薬で、500倍ほど分析計の感度を向上させることが出来ました。

ご存じのように助教や講師は5年の任期制が一般的です。私の場合も任期があり、しかも同じ職位のまま2回目は更新できないという規定がありました。研究室の諸事情から、1年程度で講師に昇進させていただいたのですが、上のポストに空きがないために、さらに上位のポストに就ける見込みはありませんでした。かなり悩みましたが、若いうちに新しい職を探す方がよいと判断して、任期を更新せず次の職場を探すことにしました。次の職場を探し始めてから最終的に決まるまで、半年から1年弱かかりました。

まず、大学の薬学部の分析化学の募集を探したのですが、ありませんでした。しかし、産総研のホームページで計量標準の領域で有機分析に関連した求人を見つけ、採用されました。テニュアトラック制(審査を経てパーマネントな職を得る前の任期付きの雇用形態)での採用でした。3度目の任期付きポジションで不安でしたが、5年後にパーマネント化の審査に合格して、安定した仕事が出来ることを期待していました。

分析化学の経験を活かして分析用標準液を開発、産業界に提供

Q:産総研ではどのような仕事をされたのでしょうか。

A:現在所属している有機組成標準研究グループは、有機化合物の精確な分析法についての研究開発を行い、その成果を利用して化学分析の“ものさし”となる標準物質を開発・製造・供給するのがミッションです。入所した頃は、バイオ燃料標準物質の開発が進行しており、その一部の水分分析を担当しました。燃料中の水分分析は品質管理のために重要な項目の1つです。その後、この成果を活かして民間の水分計メーカーとの共同研究で低濃度の水分分析用標準液の開発を手がけました。標準液には一定量の水分が入っており、水分計の校正などに用います。

また、科研費を獲得して、食用油やマーガリンなどの食品中のトランス脂肪酸含有量をガスクロマトグラフィーにより測定する技術を開発しました。この研究では測定速度を改善することを目標にしました。既存の公定分析法では従来90分かかっていた測定時間を30分程度に短縮することが出来ました。


国立研究開発法人 産業技術総合研究所 物質計測標準研究部門 主任研究員 稲垣真輔 氏 博士 (薬学)
ガスクロマトグラフ質量分析計を操作する稲垣氏

Q:パーマネント化審査に合格されたとのことですが、どのような審査だったのでしょうか。

A:審査は能力審査と適性審査からなります。能力審査はプレゼンテーションと質疑応答、適性審査は今後の研究計画などに関する面接です。自分の将来がかかっているので、職場の上司や先輩方からの指導を受けながら入念に準備をしました。能力審査では、学会発表のように得られた研究成果を淡々と発表するだけではなく、研究を始めたときに世の中が抱えていた課題に対して、どのように考えてその課題を解決していったかというストーリーが要求されました。学会での発表はある程度慣れているのですが、能力審査のプレゼンテーションには違ったプレッシャーを感じ、かなり緊張しました。普段だったら答えられる質問にも答えに窮したこともありました。しかし、幸いにも合格することが出来て、2016年4月からパーマネントな研究員となります。

Q:今後はどのような研究をされる予定ですか。

A:今後は水分分析に加えて、食品分析にも力を入れたいと考えています。食品分析装置の校正のための標準液だけではなく、前処理操作を含む分析法全体が正しく行われているか確認することが出来る組成標準物質を開発・供給することで、食の安全・安心を守ることに少しでも貢献していきたいと思っています。


Q:大学での研究と産総研での研究には違いがあるのでしょうか。

A:大学時代と使う機器は基本的に同じなのですが、研究の目的や意識を大きく変える必要がありました。大学では分析装置の感度を上げることや、医薬品や生体関連物質などを迅速に分析するということをメインテーマに研究をしていましたが、精確さについては疎かでした。産総研では精確な測定のための実験技術、工夫など、大学ではしなかったことを勉強しました。

また、大学では相手は学生だったので、自分はどちらかと言えば教える立場でした。一方、産総研では周囲の研究者もテクニカルスタッフもレベルが高い上、異分野の研究者と交流することも多く、教えられることが多いですね。


Q:仕事で博士の価値を感じることはありますか。

A:博士号は研究をするための資格と言う人もいます。確かに、自分が博士号を取得した後でも研究者として十分ではなかったと思いますので、博士号を取得することは研究者としての出発点ではないでしょうか。

仕事をしていく上では、今までの環境では周囲の人もほとんど博士でしたので、私自身は価値を感じることはあまりありませんでした。しかし、海外の研究者にDr. Inagakiと呼ばれると多少誇らしい気持ちはしました。

情熱と努力を継続することが専門分野を活かすことにつながる

Q:転職を2回されて専門分野を活かせる仕事に就かれた経験をどう思われますか。

A:私自身の場合は、学部から大学院まで分析化学という分野を研究してきたので、専門分野にこだわりました。このため、2回転職するということになりました。最初から分野を変えても安定なポジションを狙うという生き方もあったと思います。しかし、自分はそこまで器用ではなかったし、専門を大切にしたいという思いが強かったということだと思います。任期付きポジションで、将来への不安はありましたが、やりたい研究させていただけるのでぜいたくは言えないと言う思いでした。専門を大切にする、専門を変えても安定な職を狙う、どちらの生き方でもそれぞれの人が良いと思う方を選択すべきで、どちらが良いということはないと思います。順風満帆な研究生活を送れる人はそれほど多くはないです。任期付きポジションに就いている方は、そこで成果を出すことが越えなければいけないハードルと考えて、頑張って欲しいと思います。

Q:専門を大切にしたい後輩の研究者に何かアドバイスはありますか。

A:若い人には短所を補うことよりも、長所を伸ばすことを考えて欲しいです。例えば、実験技術でも、プレゼンする能力でも、英語力でも何でも良いので、誰にも負けないものを見つけてそれを伸ばせば、どこに行っても活躍できると思います。私の場合は学生時代の実験量は誰にも負けない位やりましたし、実験技術では負けないという思いがあります。

任期付きのポジションでやってこられたのは、自分が良い意味で専門分野に関して頑固だったからだと思っています。私は将棋が趣味なのですが、羽生名人が「才能とは、一瞬のひらめきやきらめきではなく、情熱や努力を継続できる力である」と言われています。頑張って、専門を大事にして下さい。

取材2015年12月