日本アイ・ビー・エム株式会社 理事 東京基礎研究所 所長 福田剛志 氏

社会の変化に合わせて変わる事業を基礎研究所が技術でサポート

Q:IBMの事業分野は大きく変わってきたと思いますが、最近はどんな事業に力を入れているのでしょうか。

A:IBMは100年以上の歴史があり、1960年代には科学計算も事務計算も出来る世界最初期の汎用コンピューターを開発して事業を拡大しました。その後、1980年代から90年代にかけて、情報処理の価値がハードウェアからソフトウェアに拡大していきました。さらに、90年代後半になるとサービスへと拡大し、最近では、インターネット等でソフトウェアを使ったサービスに対価を払うという時代になっています。IBMはこのような価値のシフトに対応して事業をハードウェアからソフトウェア、サービスにシフトしてきたわけです。現在はコグニティブ・ソリューションとクラウド・プラットフォームが事業の中核となってきています。コグニティブという言葉は日本語で「認知」を意味します。画像や映像、音声、SNS投稿など、これまで活用することが出来なかったデータを理解し、推論し、学習する機能をコンピューターに持たせて様々なビジネスに貢献したいという意味で使っています。人工知能と似ていますが、人工知能は「人間に置き換わる」というニュアンスがあります。一方、コグニティブは人間に置き換わるわけではなく、人間の能力の持つ可能性を広げ、また人間の意思決定をサポートするものです。


Q:そのような事業構造の変化に対して基礎研究所はどのような役割を果たしているのでしょうか。

A:基礎研究所も事業の変化に対応して、ハードウェアを実現するデバイス、あるいはデバイスの動作原理となる物理現象の研究からソフトウェア、ネットワーク、サービスの研究というようにシフトしてきました。

現在、最も力を入れているのはコグニティブ・コンピューティングです。この分野は非常に広範囲の技術が必要です。Watsonで話題になったように、言葉を理解できる、クイズに答えるという分かりやすい分野もありますし、計画を立案するといった分野もあります。IBMではコグニティブ・コンピューティングの応用を14の分野に整理し、それぞれに対応する技術開発を進めています。

Q:IBMには世界中に基礎研究所がありますが、それぞれの位置づけはどうなっていますか。

A:リサーチ部門は米国本社内の独立した事業部門となっています。基礎研究所は全てこのリサーチ部門の一部になっていて、世界中に12カ所の研究所を置いています。これはそれぞれの国で、優秀な人材を確保することと、マーケットの特性や需要に対応して研究開発を推進するためです。日本は世界で2番目に大きな市場ですので、特に先端的な需要を取り込んだ研究をしていることと、日本のITパートナーと協力して仕事を進めていることが東京基礎研究所の特徴です。東京基礎研究所が強い分野は自然言語処理、数理科学です。特に数理科学はオペレーション・リサーチや工場でのスケジューリングなどの最適化、機械学習をベースにしたアルゴリズムの設計・開発などが得意で、最近話題になる深層学習にも適用することができます。また、半導体関連も強い分野です。半導体は世界3箇所の研究所で研究をしていますが、東京基礎研究所はその一つとして重責を果たしています。


Q:Watsonも研究所から始まったのでしょうか。

A:そうです。最初に始めたのはリサーチ部門で、世の中の需要に対応した研究というより、先進的な技術開発を目的とした研究という位置づけでした。しかし、結果的には世の中の需要を先取りしたものとなりました。Watsonのベースであるコグニティブ・コンピューティングは14分野あると申し上げましたが、12カ所の基礎研究所がそれぞれの強みを活かし、得意な分野を分担して開発を進めています。

世の中の動きを先取りできる博士人材を採用したい

Q:コグニティブ・コンピューティングの開発を進めるために、どのような人材を求めていますか。

A:コグニティブ・コンピューティングの分野でよく話題になるのは、機械学習、言語処理、音声認識、画像認識ですね。確かに、このような分野の技術を持った研究者が必要です。しかし、卒業した後のキャリアを考えると、30年以上研究開発に従事する期間があるわけで、その間一つの専門分野だけ研究できるということはあり得ないわけです。現在注力している分野の技術を持ち、更に、世の中の動きを先取りすることが出来る人材が研究所としては最も重要と考えています。


Q:そのような資質をどのようにして見極めるのでしょうか。

A:面接の際に研究発表をしてもらいます。研究の深さも重要ですが、研究にどのように取り組んで、どのように問題解決に至ったかという過程を聞くことで応募者の資質を推定しています。例えば、自分の作ったものに執着しているだけなのか、それとも研究課題の背景にあるもっと大きな問題を理解し、より広い背景知識、洞察を持って研究に取り組んできたかといったことを見ています。研究課題の背景を理解し、それに対する自分の考え方を持っている人は、次の課題に対する洞察も鋭いからです。


Q:採用活動ですがどのようにされているのでしょうか。

A:日本IBMは職種別採用をしていますので、研究所の人材は研究所が採用することになります。研究所の財産は研究者であり、研究能力が高いのは博士人材ですから、博士人材をもっと積極的に採用していきたいと思っています。待遇の面でも博士人材を優遇しています。実績としては採用の7割程度、研究所全体で見ると6割程度が博士です。また、女性の研究者を積極的に採用したいのですが、残念なことにコンピューター・サイエンスの分野では女性の数が少ないですね。大学、高校には、学生の皆さんにコンピューター・サイエンスに興味を持ってもらえるような教育を期待しています。

経験者採用と新卒採用では入り口は違いますが、採用プロセス、採用基準は同じです。時期も、経験者・新卒ともに通年で採用しています。選考は、書類選考、一次面接、二次面接と進みます。一次面接では3人程度の面接官で話をし、二次面接は私を含む研究所の幹部や人事担当者に対して研究発表をしてもらい、評価しています。海外や遠方の応募者の方とはビデオ面接も実施しています。時期や場所に縛られずに、かけがえのない出会いを求めているからです。

経験者採用の博士人材は、大学でポスドクをされていた方、民間企業の研究所で仕事をされていた方、国立の研究所から来られた方など様々なキャリアを持っています。


日本アイ・ビー・エム株式会社 理事 東京基礎研究所 所長 福田剛志 氏
日本アイ・ビー・エム株式会社 理事 東京基礎研究所 所長 福田剛志 氏

Q:候補者の専門分野が日本IBMの求める分野から外れていても採用されることはありますか。

A:はい。例えば、文系の方でも研究の手法として数学を使われていて、その数学が研究の役に立ちそうであれば、採用する可能性はあります。どんな研究者でも、一つの研究が終わって次の研究テーマに移る際に、自分の強みを活かして、隣接分野で研究をしていくということになります。採用の際にぴったり当てはまる研究分野の方がいることはほとんどないですから、隣接分野で探すということになるわけです。隣接をどこまで広げられるかはチャレンジですが。


Q:採用後の仕事はどのように決めるのでしょうか。

A:採用したい分野を決め、応募者の専門を考えて、想定する分野にマッチするであろうと思われる人を選考することが多いので、専門と全く異なる仕事になることはほとんどありません。但し、内定の際に採用後の仕事の内容を約束はしていません。また、想定の配属分野はまだ決まっていないが、非常に優秀なので採用するというケースもあります。

先ほど申し上げたように、研究テーマは不変ではなく、世の中の動きに先んじて変わるべきものですから、研究者は次のテーマを考え、提案することが重要な仕事です。研究所には提案を集め、評価するシステムがあります。そこで良い提案と評価されれば、新しい仕事を始めることができるわけです。


Q:研究者の評価はどのようにされていますか。

A:研究所ですので、論文、特許で研究成果が出るということはもちろん重要ですが、それ以上に、世の中にどれだけインパクトを与えたか、IBMのビジネスにどれだけ影響を与えたかということが大きなポイントです。そのようなことを評価する仕組みを持っており、ビジネスに大きな影響を与えたプロジェクトに対してはインパクトの大きさに応じて表彰も実施しています。表彰を受ければ、個人としても高い評価を受けるということになります。


Q:研究者のキャリアパスについて教えて下さい。

A:技術職の最高職位はフェローで、その下にディスティングイッシュド・エンジニアがあり、この二つは役員クラスです。更に、その下に、シニア・テクニカル・スタッフ・メンバーという職位があり、研究所の中でキャリアを築くことが出来ます。

また、ある程度研究を経験した上で、実際のビジネスを担当するというパスもありますし、コンサルタントになる方もいます。その人の個性や希望に応じて多様なキャリアの歩み方が出来るというのもIBMの特徴です。

世の中の動きに問題意識を持って、専門領域を広げて欲しい

Q:博士人材に期待されていることはなんでしょうか。

A:昨今のIT業界、コンピューター・サイエンス、あるいは情報処理の世界では研究と実用化の境界が非常に薄くなっています。また世の中の動きが格段に速くなっているので、時間に対する要求はかなり厳しくなっています。昔は研究して、理論が出来て、試作して、製品化するというステップで時間をかけて事業化していたのですが、最近では研究しながら、世の中で使ってもらえるものを作る必要があります。一人の人が全てをカバーする必要はありませんが、エンジニアなど実装する能力を持った人と組んで、どのようにすれば世の中に出せるのかを理解できる人が求められています。研究者は世界をリードしていく立場ですから、常に新しいインパクトを出すことを要求されています。これから活躍できるのは、どのようなパートナーと組んで、どのようにすれば世の中にインパクトを与えることが出来るのかを考え、社会実装が出来る人だと思います。博士人材はそのような能力を持っている可能性が高いと考えていますし、技術を社会にどのように出すかという問題意識を常に持って研究して頂きたいですね。

Q:最後に博士人材にメッセージをお願いします。

A:15年前を考えてみると、今とは全く違っていたことが分かるはずです。研究者としてのキャリアは30年以上続きますから、自分の専門分野内でずっと仕事をすると思わないで、研究分野はもっと広く考えるべきだと思います。博士人材の方は専門性を極めてきたわけですから、下手をすると井の中の蛙のように周囲が見えなくなってしまう可能性もあります。世の中の動きを見て、自分がどこにシフトしていくのかを常に考え、専門分野を広げる努力を続けて欲しい。私自身も“しりとり”のように隣接する領域に研究を広げてきました。博士は融通が利かないから使いにくいと言う人もいます。専門性が深いためにそこから動けないということがあるのではないでしょうか。世の中は変わっていくのだから、自分も常に動いていかなければいけないという自覚が重要だと思います。

取材2016年11月